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ろめ日々の雑記=すなわちその日どんなネタを考えていたか、と化している妄想屋の日々の戯言



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 『テルーと猫とベートーヴェン』を買ってきてみました。あーやっと手に入った。ていうか、谷山さんのアルバム買うの初めてです(笑)。いっつも借りてすましていたフトドキモノ。

 で、せっかくですからゲド歌集の曲は比較してみました。もちろん編曲も違うし歌い手も違うからどっちもかーなーりー違うイメージなんですけれども。いやぁほんとに個性っていうか解釈が出るもんだなぁ…。以下曲語りですがなんだか軽くゲド語りになってるかも(笑)。

 “竜”は編曲の違いがそのまま歌い手の違いとリンクしている感じ。“数え唄”もそうなんだけど、それこそ手嶌さんはもともと竜で今は人間の中にいる感じ。谷山さんは人間でありながら人ならざるものを語る歌い手。手嶌さんの編曲は基本的に静かで抑え目、声だけを際立たせるようになってるけど、正しいと思う。もっと楽器があっても、声が“孤独”な感じなんですよ。ひとりの世界を知っているというか。顕現させるのが“ひとり”である世界というか。

 “旅人”はそれがもっと顕著。手嶌さんの編曲&歌い方が周囲に誰もいない状態で回想しているような寂しさがあるとすれば、谷山さんの編曲&歌い方は、聴衆に向かって英雄歌を語り聞かせている歌い手自身は群集の中でたったひとりであるという淋しさ。あー伝えにくい!

 “テルーの唄”これは歌い手の違いがそのままはっきり解釈の違いで出た感じ。解釈といっても、この曲&歌詞はそもそもどちらでも取れるように出来てるから、どっちも正しいどころか、……よもやこれを狙っていたわけではないだろうな吾朗監督。そしたらすっごいんですけど。結論を言えば手嶌さんは“テルーの唄”、谷山さんは“テナーの唄”。もちろん歌い手ふたりの実際の年齢や人生経験がそのまま現れてるのですけれども、それにしても手嶌さんは“テルー”で、谷山さんは“テナー”なんだな、と。そして声のイメージとして手嶌さんのもつ声の孤独感はあんまりにも“竜の少女”。谷山さんは“人間の女”で歌い手な感じ。

 “空の終点”が一番編曲に差がないから、その歌い手の違いがわかりやすいというか…。“テルー”はまだ少女なんだけど、少女らしい未来への希望とかわかりやすいそんな感情がいっぱいなわけではない。“あのひと”は明確なイメージを持つようで像を結ばない。映画できっぱり言えば“あのひと”がゲドかアレンかわからない。“テナー”は(原作ではそうだけど、たぶん映画でも)結婚して子供を育てて夫を亡くして、そうして今独り身になって少女らしい少女の時に縁があって、今でも、そして今から愛が落ち着くところの相手である“あのひと”=ゲドがしっかり像を結ぶ。

 すごいね!見事に年の差が出てるよ!そんでどっちも素敵だよ!…いやもう吾朗監督、これ狙ってやったんならあんたはすごいよ。いや普通にすごいよ。

 ………ところでゲドなのはこのアルバム前半だけなんですが、中間第1曲めでそのあまりの谷山ワールドにどごっと落とされました(いい意味で)(ああ炸裂谷山ワールド)(べにまぐろ…)。

 あ、高校の文化祭は無事行きましたよ!ゲキ部はがんばってました。来週のコンクールも行きますよ。せっかく定期で行けるんですもの(笑)。

 ゼミ誌のネタ、ガウェインの結婚話&緑の騎士の話じゃダメかしら…。オチが、オチが見つからないけれど!(汗)
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