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ろめ日々の雑記=すなわちその日どんなネタを考えていたか、と化している妄想屋の日々の戯言



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 水曜の授業は漢文なんですけど、そうでした、私は、古文よりも漢文の方が得意な子でした…。うん今日は結構いい感じな授業できたよ。この調子!

 そして水曜ぶっ続けの三時間が終わるとその週は授業終わりなのです。だから踊りました。踊りたい気持ち、やっとわかったかも。

 で、今日ふとウチのルーミルのモデルに気がつきました。うわー。この要約力の高さ、今実習を一緒にやっている高校時代の部活の先輩、彼女がウチのルーミルのモデルじゃ~ないですか。間違いない。だって暗記力はどちらかっていうと無い方で、しかし要約応用力はかーなーり、高い。演劇で、キュー台詞を意味は合ってるけど違う言葉で何度連発していたことか(たとえば、キュー台詞「行こうぜ!」を「おら、行くぞ!」とか。…キューにならない(爆))。いやー、こんな身近にルーミルがいたとは…。あっはっは。

 つづきはフィンウェさんに関してぐるぐる考えまくってることを論文調に考えてみたもの。どこにいきたいんだ私は。

 明日はお休み。研究します。



 ………力のふたつの側面のうち(彼の父親が「生かされた」理由でもある)癒しの側面は顕現せずに奥深くに沈み、至福の地での「死」という転機によって性格・外見上の雰囲気として現れることとなる。一方、力たる力、閉ざされた道を切り開き率いる力は旅路の間はっきりと現れ、その時に流された血によって、彼の癒し手の資格は失われたと彼と彼の民は考えた。
 彼がいつその資格を失ったかと論じることは、この際、重要ではない。私は、彼はその資格を失ってはいないと考えるのである。表面上は失われた力は、「失った」というよりもむしろ「隠された」と言うべきであろう。世間からも自分からも「隠されて」しまった彼の力は、彼の内にあるが彼の制御を離れたものとなる。それは確かに「血」が原因だ。更に踏み込んで言うなれば、彼の生まれ育ったところは至福の地ではないということが挙げられる。彼は死の恐怖も血の悲しさもとうに知っている身なのである。
 彼が我々の前に現れ出た時、まさにその時、彼は傷を負い損なわれた身となった。よって、彼の内の力(つまり“泉”)は以後その大半を持ち主の身を治す手立てとした。多大な“泉”があったからこそ、そこまで損なわれてもなお、彼は“少しのハンデ”で生活を営むことができたのである。
 しかし生命維持活動と子孫繁栄の手立てでは、勿論、生命維持活動の方が優先される。彼の“泉”もそう考えた(力に意志はないがそう言っても差し支えのないほど強大な力である)。したがって、彼が至福の地へ初めて渡ったその時、“彼はまだこどもであった”この表現の指すところに間違いはなく、身体を動かす“少しのハンデ”と共に彼自身の心の奥底で大きなコンプレックスとなっていたことは想像に難くない。だからこそ後年、彼は思惑とは別に、根源的な欲求の部分で多くの子どもを欲しがったのであろうと考えるのである。
 さて損なわれた身となる前、彼がどんなこどもであったのかは、損なわれた後、激しく自らを愛憎する裂かれた魂の独白からしか知ることができない。“湖の記憶”を語る彼は時系列としては“血の戯れ”と同じである。つまり、まさに望んだ死を迎える直前ということになる。そしてこれがその状況での独白である以上、多分に偽悪的な要素が入っていると見て間違いはないだろう。
 しかしここで忘れてはいけないのは、彼の言動は多分に偽悪的でありながら偽善的でもある、ということだ。彼は自らを偽善者だと思っている偽悪者であり、おそらく根源であろう「本来の彼」の姿というものは、言動の端にちらりとひらめくだけである。そのひらめきと、あまりに理路整然としすぎる思考である彼が、思考を放棄しているところ、反射的に感じたがゆえになした言動を見るに、彼はまさしく自然にあるがままの“聖母”である。もしくは“泉”と言うべきか。彼の内の力がそのまま彼に具現化したのではないか、と思わせる。そしてその姿こそが、我々が知り得ない彼の“損なわれる前の姿”であるのではないかと考えるのである。――それは同時に“知恵”を知る前ともいえる。彼の名が示す通りに、知恵ある者は、しかしその知恵に気づかなくては知恵ある者とはいえない。損なわれたその時に、彼は守られる資格を失った。そして自らの知恵に気づき、それが余計に彼を孤立させた。ある意味では、彼の父親以上の孤独に彼を追いやったのである。ここから、彼の生涯の苦悩は始まる。誰も真には理解し得ない孤独である。
 心の土壌は充分に整っていた、その時に損なわれた身体を治しに彼は至福の地へ行くこととなる。そこで過ごした2年の間に培われたヴァラールへの絶対的な信頼は、それ以降の彼に大きく影響している。その信頼が揺らぐのが、至福の地に現れる「死」という転機である。
 初めて至福の地へやって来た時に「こども」であった彼は、「死」という転機の際に新しい「生」を抱いている。彼の求める理想の家族像は、出だしからやはりこれも「損なわれた」ものとなってしまった。彼は、しかしそれでも理想を追い求めるのをやめることはない。ヴァラールへの信頼が揺らいだ今となってはなおさらに、損なわれ続ける彼の生を修復しようとする努力をやめることはできない。やめた時が彼の死である。
 「死」という転機に彼は損なわれた穴を埋めるものとして「母親」を必要とした。去りゆく妻を自らの内に取り込んだのである。この時期の彼の意識としては、王である時は父親、こどもに対する時は母親であろう。それがこどもの成長につれて再び変化する。彼は母親としての慈愛と共に、父親たる冷徹な視点でこどもを見ている。彼自身の、個人の望みの実現には、このこどもでは無理だということを悟る。そして彼は再びの結婚を考え始めるのである。
 「死」という傷は消えない。彼はヴァラールを盲目的に信頼することをやめてしまった。そればかりか、最後の望みのところでは誰も信じることをしなくなる。やはりここでも彼の心は孤独にあるのだ。
 損なわれたものをそのままに慈しむのはニエンナの領分である。その慈しみが癒しをもたらすのだと、誰に教えられるまでもなく、「死」という転機を迎えるまでの(もしくは、自らの身体が損なわれ、守られる資格を失くしてしまった時までの)彼は知っていたはずである。転機によりそれらは内の深くに泉と共に封じられ、長い半生の間にはっきりと現れることはなかった。
 長い時を経て、「うんざりだ」と言う彼、それでありながらヴァラを「哀れ」む彼は、望み通りの死を迎えながら、時の果ての館で最後の選択をする。それは現世で望み続けたこととは全く違うものだった。
 彼の耳には“もう眠りたいのです”と囁いた妻の言葉がこだましていたかもしれない。その彼が、果ての館で、待ち続けることを選んだその瞬間こそが、彼が資格を現した瞬間であり、同時に資格を失ってなどいなかったと証明した瞬間であると、私は思う。
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