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ろめ日々の雑記=すなわちその日どんなネタを考えていたか、と化している妄想屋の日々の戯言



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 主体や主語の重んじられる西洋言語は契約社会から生まれる、やらキリスト教に代表される一神教の特性とかあれやこれや授業で聞いたことから発展させてお喋り(論議というにはあまりに結論がほど遠い)(というよりもそうやって考えて喋る過程が大事なのですよ。結論より)していったら約束ってなんだろうというところまで流れる。

 ろめのフィンウェさんの約束概念は実は物凄く日本人の発想なのかもしれない。

 や、性格つけしてる私が日本人なんだから当たり前っちゃ当たり前なのかもしれませんがしかし、JK姉が教会のミサに行って「ううん何か気持ちが悪くなっちゃった」と言って帰って来たあの感覚ですか、どうも一神教の概念が染み付かないというか、狩猟民族でなくて農耕民族(もしくはせいぜい漁業民族(そんなんあるんかいな))の気持ち?

 約束は、果たさなくてもいい。

 守らなくてもいいんです。守った方がそりゃ良いけど、守れなかったとしても「君が守れなかったか仕方ないよね」と許してもらえる根回しが出来ていれば。

 狩猟民族と農耕民族(または漁業)について私ちょいと前に「自然に対する待ち」の概念だと決着つけてた気がするんですが、それを「自然に対する畏怖による待ち」というのに置き換えてみる、と。狩猟は嵐が来ようが獲物のために飛び込んでいくわけです。自然の恐ろしさは分かっていてもそれを力でねじ伏せる。身を守るため、生き延びるために「戦う」という「契約」をする。そういうことだとします。すると農耕というのは「お邪魔します」という「約束」をする。そんな感じの概念じゃないでしょうか(なんか論旨がヘンだな~)。

 私が日本的だなぁと感じるのは「契約」ではなく「約束」なわけです。契約は(それとも「誓言」は)果たさなくてはならない。破ったら「罰」が待つわけです。罰までコミで契約する。約束は果たさなくてもいい。だって罰はないから。罰ではなく、約束には傷があるのです。破ったら傷つくんです。心も信頼関係も。なんというか湿っぽい関係の上に成り立ってるんです、約束って。契約はとっても乾いてますよね。義務と罰がある。割り切れる関係に成り立ってる、と漠然と思います。

 日本語に主語はないんですよ。主格はあるけど。格助詞によってほぼ何でも「主」になり得る。言わないでも見れば(聞けば)わかるから「主」は省かれる。動作したひとでなく動作されたものが主にもなる。「私がお茶を淹れた」んでなく「お茶が入った」というアレです。しかしこれは良いことした場合。悪いことした場合は何が何でも自分のせいにしてます、日本語って。「お皿割っちゃいました」って言いますね。「お皿が割れました」って言いませんね。自分が持ってて落とした場合に。

 そういうところ考えてたら何ともろめのフィンウェさんって日本人な気が(爆笑)。

 う~~ん、誓言絡み考えてたら、私もっぺん聖書やり直さなきゃダメかな~と思ってきたんですよね。西洋的な(と言い切るのもどうかとは思いますが)「契約」とかの概念ってどうだったかと。例えば十戒であったり、黙示録であったりするわけなんですけどね。「怒りの日」絡みの音楽とか詩編を読んでみるに、これを念頭に置いておかなければなんかダメかも、とか考えたり。日本的に言うと未来永劫続く罰というのは存在しないわけで(たぶん)。だって神は唯一絶対じゃないもの。……私の根本的な思考は今さら変わりゃしませんが、考えるための意識的な思考ならまだ変えられる、というか引き出し増やせるはず。だったら勉強して悪いことはないですな。

 大学行って何が楽しいって、こういう言葉とか物語とか思考とか民族性の違いとかを超マジに話し合ってそれが勉強になるってことですけど、………就職と全く結びつかないの。助けて。…
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