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ろめ日々の雑記=すなわちその日どんなネタを考えていたか、と化している妄想屋の日々の戯言



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 地獄の定義って、
「神(愛するもの)が存在しない世界」だそうです。

 …ぎゃふん。

 なるほど、それなら、ミーリエルを失った世界(アマン)は「至福の地」にも関わらず、湖から率いて行くに至った決意をなさしめるほど魅力的な場所であったのにも関わらず、フィンウェさんにとっては「地獄」であったわけですな。
 そりゃごもっとも。

 で、私的にはもうこの父子どっちが悪いのか良くわからん愛のすれ違いぶつかり合い取っ組み合いがありまして(はぁ?)。

 愛するものっていうか、私の定義では「=世界」なのでちょっとズレますけれど。

 なるほど、それなら、フィンウェさんを失った世界(アマンも中つ国も同じこと・現実のアルダ)はフェアノールにとって「地獄」でしょうな。そりゃごもっとも。
 もうすでに、幻想も希望も抱いていないのだし。
 前に書いたものって読み返すと印象が大分違うことってありますよね。ドツボです。うわぁああチクショウ今さら気づかなくても良いところに気づいてしまったっ…。

 つまりそれは結局「身内」もしくは「家族」であることが愛情にどの程度影響するかというそこで、全くうちのお知恵さんは本当にムカつくくらい酷い思考回路だ。なぜそうなる。

 身内でなければ愛せない相手、というものを私は滅多に書かないのだけれど、それと言うのも本人ありきで、その後その人物が自分(そのキャラ)にとってどういう位置づけでどういう現象を引き起こす相手なのか、という思考回路だから。とかく今回に至ってはフィンウェさんの思考回路がちょっと普段と違って特殊事情なために面倒なことになってるのだけれど、つくづく、フェアノールって、不憫だ…。可哀想だよあの子…。

 身内というとまたニュアンスが違うのかな。身内には心持ちひとつでなれますもんね。家族、これもちっと違う…。やはりそれは血の繋がり、になってしまうのかな。それもさらに何か違うような。つまりは成長過程を見ていた相手である、という所が重要なんだなぁと思ったり。

 それはフィンウェさんとミーリエルでも同じことなのですが。ろめの場合、あのふたりは湖で自分の両親が健在な時に出会ってないと無理なふたりです。

 ある意味ジレンマ。身近すぎる身内であるから愛してる、身近すぎる身内であるから恋愛対象にならない。でも身内でなかったら絶対に愛せない。

 相反するものが常にワンセット、というのがフィンウェさんの基本ですが、ことフェアノールに対しての本音部分は特にそれが顕著な気がする。「私が死ねって言ったらあの子、本当に死ぬじゃないか。それが嬉しくてそれが嫌だ」っていう感じね。またそれは世界のジレンマでもあり。
 ろめのエルダールが和歌詠むのを認めてみたらなんかスッキリした。ついでにどうせ湖世代のマハタン&キアダンなんだから、とかいう理由で、古語訳(しかも長歌)して反歌もつけてみた。

1、キアダン(“ ”内はマハタン)

 長歌

波さらふ 砂の砦と
風さらふ 君が心と

数多なる 言の葉つむぐ
君が声 今も響けど
我が声は いらへ返さず
寄する波 思ひ打ち寄せ
またさらふ 君が足跡

“そらわたる風になりたし
 みづすべる音になりたし
 かげあふるる光になりたし
 叶ふまじ事の心を 乞ひ願ひ響く我が声
 つれづれに からと回りし”

水揺るぐ 我は一人 波に浮かびし


 反歌

数多ある言の葉たどる波の音にまひるの岸辺君を思ひし


2、マハタン(“ ”内はキアダン)

 長歌

空染めて 紫立ちたる
光見き 思いは帰らむ

海渡る 風は止みにし
たそかれに 船を漕ぎ出で
我は行かむ 遅きを知りつつ
寄する波 思ひ打ち寄せ
我は走り 君と逢ひ見る

“心放つ虹あらまほし
 時わたる羽あらまほし
 君に云ふ声あらまほし
 我は波 逢ひ見て後は
 君が舟 君が心を
 みな満てる 腕与えむ”

眸閉づ 君が波かも 大き揺らぎに 


 反歌

光さす夕凪の岸に君立ちてまひるは遠き湖の心か


 元ネタが『STEP TO FAR』だって誰が思うよ。でもけっこうキッチリ古語訳してるんだよ。一部意訳だけど。マハタンの反歌は反歌になってませんが(反歌は基本的に長歌のダイジェストを詠みます)、話の展開的にはこれでオッケー。さあ書くか。
 タイトル頂いた某劇団の某芝居が放送されてまして、見入ってしまいました。面白かったよなぁ、コレ。……ちなみに内容は全然違いますが、寿命がなが~いとどうなのか、という解釈において近いものがあるかもしれません。

 それはともかく、こどもなエルウェが「ぼく」ですって!ちゃんちゃら可笑しいです(笑うな)。素晴らしい不思議ちゃんですが、祖父なエネルもかなりの不思議ちゃんで、かつ自称「じいじ」が死ぬほど笑えます。自分で書いたものに笑ってりゃ世話ないわ。

 このエネルマニアが次第に性格変わっていくんだもんなぁ…。私にとってエルウェっていうのは好きになった相手の本質を映す鏡ですから、誰かを好きになると性格が変わります。……つまり、フィンウェさんを好きになったらツッコミ度が増したりして、メリアンを好きになったら拉致監禁癖が出るっていうこと…(すごい言い草)。

 そういうふうにエルウェが変わってきますとイングウェも変わってきますね。仲悪いっていうか喧嘩するほど仲が良いの典型ですかねーエルウェとイングウェって。

 ま、しかし、最も性格が変わったであろうのはフィンウェさんでしょうなぁ…。両親といた頃、祖父といた頃、アマンに行った頃、大いなる旅の頃、都造ってる頃、ミーリエル口説いてる頃、結婚したて、……どんどん変化しますとも。キャラ違くないかと突っ込まれないように…精進じゃ!
 乙女ほど夢見がちでなく、打算的な部分がかなりあって、でも悪女とか小悪魔ほど計算高くはなく、素に出てくるものが多々あって、それを仮に「少女性」なるものだとするなれば、ウチのフィンウェさんてのは多分「少女めいた」という表現が似合う方、なのでしょう。たぶん。まだ形容には使ってませんがそのうち使っちゃうかもー。

 外見25歳成人男性(ちょっと発育不足かもしれん)……の……中味に少女がいる。明らかにおかしいのに納得いくのはどうしてだろう…。ああ、ちなみにおそらく中味に乙女がいるかもしれないのは間違いなくマエズロスです。や、野郎のくせにー!(褒めてる)

 しかし「こども」と「少女」の違いはやはり性的なニュアンスでしょうね。未分化と分化した後の。男性ならば性的と言い切るよりも(広い目で見れば「性的」ではありますが)成長過程の骨格や肉の付き方の変化、くっきりはっきり見た目の変化が先、でしょう。しかし女性は、どっちかっつと、見た目よりも見えないとこの変化の方が先、な気がする。だから「少女」の方が外見「こども」に近いと思う。

 例えば○○だったら?空想で気を紛らわすのはこどもの特権なのか、オトナの逃避なのか。湖思いながらそんなことばっかり考えてます。
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