ろめ日々の雑記=すなわちその日どんなネタを考えていたか、と化している妄想屋の日々の戯言
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もしくは開き直り。またはローカル・ルール万歳な話。酔いが残ってて頭が痛い。もはやメモ状態だが書いておこう。明日の朝に覚えてる自信がない。
書きたいのは関係性。関連して感情。で、いろいろパターン考えてみるわけだけど、どんなジャンルにいこうがどんな世界観で書こうが必ず書いてしまう(書かずにはいられない)鉄板な関係性がいくつかある。そりゃそうだな。書きたいんだもん。
で、その中に、気のふれたひとと、そのひとに付き合っているうちに自分もおかしくなったひとと、そのひとを見つめているひとの関係性がある。普通とか正常とかマトモとかいう言葉の定義に関しては今日はぽいっとしとく。あくまでその世界観においてのローカル・ルールの話だ。
ワリを食ったなあと思ってるのはろめの場合エレイニオン。ていうかギル=ガラド?あの子が躁鬱病みたいな人格形成になってしまったのはフィンウェさんがアレな以上仕方なかったんだ。許してくれ。てなわけである意味で後期のエレイニオン×スランドゥイルっていうのはこの気のふれたひとと、の関係性になるわけだ。そうなるよなー。
ずっとモヤモヤしてたのがああそっかそうなるのか。と納得してしまった輝ける英雄のエアレンディル。マイグリン←エアレンディル×エルウィングは変形の気のふれたひとと、の関係性になったりするかもしんない。
そういえばレイシアンっていうのはルシアンが自分のカタシロを取りにいく話なわけだ。
シルマリルの物語の「シルマリル争奪戦」「ベレリアンド戦記」の裏である同じ顔にまつわる事柄が延々繰り返されている。だいたい後から見ればそれって不幸じゃね、と思う感じに繰り返されている。根本的にはじめのいっぽが叶ってないからそりゃそうか。とか思う。
普通とかマトモとか正常とかいうのがあるローカル・ルール内の規範と≒であった場合、っつかそういうのを普通とかいうんじゃないかと思うんだけどさ、逆に言えばこうも言えるんだ。みんな狂っていてひとりだけマトモです、と。ある意味でノルドールにおけるフィンウェさんってそういうポジションなんだと思うんだよ。教祖みたいだね。気のふれたひと≒崇めたてまつられるひと、という意味で。
そういう意味で雪ロミジュリがやたらツボにハマったのは、私の好み的に仕方ないなあと思うし、中でもあのベンちゃんが無性に好きなのも仕方ない。夏って大体そういう話書いてるもんなあ、私。だから生で観た冬や春でなく、めぐりめぐって今頃ハマりまくってるのも仕方ない。そういうリズムだったってことだ。
でもこの書いちゃう関係性ってやっぱリアルを反映したりするんだね。昨日のフィンウェさんもある意味自己投影型と言えなくもないもんな。自分ダイスキだけどダイキライだよ。
そういやー満月ポトフーもそういう歌であるような。ということは。
書きたいのは関係性。関連して感情。で、いろいろパターン考えてみるわけだけど、どんなジャンルにいこうがどんな世界観で書こうが必ず書いてしまう(書かずにはいられない)鉄板な関係性がいくつかある。そりゃそうだな。書きたいんだもん。
で、その中に、気のふれたひとと、そのひとに付き合っているうちに自分もおかしくなったひとと、そのひとを見つめているひとの関係性がある。普通とか正常とかマトモとかいう言葉の定義に関しては今日はぽいっとしとく。あくまでその世界観においてのローカル・ルールの話だ。
ワリを食ったなあと思ってるのはろめの場合エレイニオン。ていうかギル=ガラド?あの子が躁鬱病みたいな人格形成になってしまったのはフィンウェさんがアレな以上仕方なかったんだ。許してくれ。てなわけである意味で後期のエレイニオン×スランドゥイルっていうのはこの気のふれたひとと、の関係性になるわけだ。そうなるよなー。
ずっとモヤモヤしてたのがああそっかそうなるのか。と納得してしまった輝ける英雄のエアレンディル。マイグリン←エアレンディル×エルウィングは変形の気のふれたひとと、の関係性になったりするかもしんない。
そういえばレイシアンっていうのはルシアンが自分のカタシロを取りにいく話なわけだ。
シルマリルの物語の「シルマリル争奪戦」「ベレリアンド戦記」の裏である同じ顔にまつわる事柄が延々繰り返されている。だいたい後から見ればそれって不幸じゃね、と思う感じに繰り返されている。根本的にはじめのいっぽが叶ってないからそりゃそうか。とか思う。
普通とかマトモとか正常とかいうのがあるローカル・ルール内の規範と≒であった場合、っつかそういうのを普通とかいうんじゃないかと思うんだけどさ、逆に言えばこうも言えるんだ。みんな狂っていてひとりだけマトモです、と。ある意味でノルドールにおけるフィンウェさんってそういうポジションなんだと思うんだよ。教祖みたいだね。気のふれたひと≒崇めたてまつられるひと、という意味で。
そういう意味で雪ロミジュリがやたらツボにハマったのは、私の好み的に仕方ないなあと思うし、中でもあのベンちゃんが無性に好きなのも仕方ない。夏って大体そういう話書いてるもんなあ、私。だから生で観た冬や春でなく、めぐりめぐって今頃ハマりまくってるのも仕方ない。そういうリズムだったってことだ。
でもこの書いちゃう関係性ってやっぱリアルを反映したりするんだね。昨日のフィンウェさんもある意味自己投影型と言えなくもないもんな。自分ダイスキだけどダイキライだよ。
そういやー満月ポトフーもそういう歌であるような。ということは。
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