忍者ブログ
ろめ日々の雑記=すなわちその日どんなネタを考えていたか、と化している妄想屋の日々の戯言



[1231]  [1230]  [1229]  [1228]  [1227]  [1226]  [1225]  [1224]  [1223]  [1222]  [1221
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 『組曲・虐殺』を銀河劇場で観て来ましたよ。

 井上ひさしです。面白くないわけないじゃないですかっ。っていうか心底面白くて、テーマはテーマですからものすごく深くて重くて笑いつつ頭を使って…ええ、充実してました。3時間。小林多喜二の話ですからラストは動かしようがないわけで、それを一体どう見せてくれるのかな、と思ってましたので、どの役者さんもとてもぴったりハマっていて、全く観客としてはストレスのない良い芝居でありました。こういうの見ると演劇って、きっと、おそらく、脚本+演出の思うことを増幅して伝えるには良い媒体なんだろうなと思うわけですが。ちなみにそうなると文筆創作ってのはそれら全部ひとりでせっせこやらにゃならんのですが…私の場合は脚本の詰めが甘くて演出の腕は時々すごい気合が入り、役者の思いばっかり溢れ返ってる事態になってるようです。はっはっはー…笑いごっちゃないよ。精進せぇな。

 さてそれで、思想と恋愛についてなんかつらつら考えました。やっぱり思想を同じくするひと=同志と、心の大事にしておきたい部分を捧げるひと=恋人が両立するのは難しいのかなとか。またはそれは両立してしまっては、逆に幸福ではありますが状況いかんによっては死ぬより辛いことになってしまうのかなとか。はたまたそれは、一緒に地獄に落ちても良い相手と、自分はともかくもひとつ綺麗な何も心配のいらないところに崇めたてまつっておきたい相手との違いなのかなとか。

 男と女の関係で同志と恋人は両立しにくいと思います。それはぶっちゃけて言ってしまえば、恋人とはこどもを作るものだと思うから。こどもが出来たら、男と女の関係で同志はもう成立しないと思うのです。成立しない…というか出来ない、というか。それは、やっぱり私は女はこどもがいる時はこどもを一番に考えるものだと思っていますので。少なくともこどもが赤子のうちは、私ひとりは私ひとりでないんだと思ってるのです。女はひとりだけれども、母と赤子はお互いひとりではないのです。常にふたり。

 そして同志はひとり同士でないと成立できないと思うのです。同じベクトルで、強さは違っても進んでいて、ふと隣にいる相手を認識していくものだと思うのです。そしてひとりで立っているからこそひとりでないのを認識して満たされると思うのです。同志って、そういう解釈なんだ、私の中では。

 二次創作でしかもBLを私が好んで書くわけは、もしかしたらそんなところにあるのかもしれません。だって同志と恋人が両立するもんね、その場合。けどそうやって、同志=恋人なものをさんざ書いていますと、さてはて身体の関係というものは結局どう理由づけしたものか、とかそんな問題に突入します。だからかなぁ、私の書く右の人はどうもセックス嫌いが多いです。少なくとも全面的に「大好き!」って言ってくれるひとがいない。今書いてる某彼なんかきっぱりはっきり「嫌」と言ってます。本気で。イヤよイヤよでなくて。

 充足感だとは思うんですけどね。満たされた感じ。精神の充足ではあるんですけれども、人の温もりとかそういう身体から満たされていく感じ。

 フム!寝ましょう。
この記事にコメントする
Name
Title
Color
Adress
URL
Comment
Pass   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
忍者ブログ   [PR]
 
PR