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ろめ日々の雑記=すなわちその日どんなネタを考えていたか、と化している妄想屋の日々の戯言



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 本日も大分論旨がぐちゃぐちゃです。

 さんがつみっかはヒナマツリ。というわけで彩乃かなみさんのお茶会に行って参りました。も~、みほこちゃんは相変わらず可愛い…☆(きゅんッ)お茶会でふと思い出しましたが、いつだったかどこかで(全く特定できない時間場所指定)銀英パロで帝国側、士官学校を音楽学校、平和になったその後設定で提督方のファンクラブ及びお茶会を書いたサイトさんがあったなぁと…。元ネタ(っつーかりあるのあれやこれや)を知ってるだけにめちゃくちゃ面白かったけど(アイゼナッハのお茶会での「あなたも副官!」ゲームとかありえそう過ぎて笑い死ぬかと思った)、あいにくとタカラヅカ以外のファンとの交流の場っていうのを知らないので、世間一般からしたらこういうイベント(?)があるのは普通なのかそうでないのか…ワカラナイ。シルマリルでもネタとしてやったら面白そうな気がしますけどね、お茶会(お茶会限定かい)。アレだ、今は禁止(っつーか自粛?)になっちゃったけどその昔(と言ってもいいと思う)ゲストが来てた頃を思い出すに、マエズロスがお茶会したら確実にフィナルフィンが来る(そこか)。で、「え?…ええ!?ちょ、待っ、なんで来てんの!?忙しいってさっき会った時言ってたじゃん!?」「ふっふっふー、ここに乗り込むから忙しかった」「何だよそれ、だっておめかししてるのもてっきりエアルウェンとデートかと」「あ、それもある」「僕のはついで?ふーん」「私が来て嬉しくないの~?(うりうり)」「嬉しいもんか。帰れ帰れ(笑)」とかいうアホなやりとりを…だめだ元ネタっていうかあの感じをわからない人に伝えられる自信がない(爆)。

 お茶会で本題を忘れそうになりましたが、今日はキャラクター論、というか創作論、というか、つまり話ってパターンが決まってるよねという私の卒業論文予定のブツに突っ込んだ妄想をしてました。つまり一次創作と二次創作に「創作」という点であまり差がないっていうのと、キャラクター作るってどういうことかというソコなんですけど、同時に「物語」というものの語り方は3種くらいしか考え付かないもしかしてコレっきゃないのかえー、という考え(またわけわからんような)。

 物語というものは「事件(時間と場所)」か「人物」かどちらかもしくは両方で語るしかないのではないか、という(それ当たり前だって?当たり前のことを考え直すのが趣味です(爆))。それを前提におくと、そうかつまり「キャラ被り」というのは厳密にはあり得ない(けど似てるから被った扱いになる)のかと。

 それはつまり私の創作の仕方が発端なのです。シルマリルに関しますと非常に歴史モノのオリジナル書く時と考え方が似てるんですけど、まあ、つまり二次創作の場合、原典がありますよね。原典を読んで、「こういう状況でこういう行動をする」のが「このキャラ」という共通認識を持つ。その認識を深めていって、「じゃあこういう状況だったら?」というのを振ってみて、考え付く最も「このキャラらしい」行動を書く。これが最もオーソドックスな創作の仕方かと思うんですよ。主に二次及び歴史モノ、翻案モノなどの「原典」持ちの。

 創作というのが結局「人間を書け」と言われるのはこの過程をふまえるべきだという共通認識があるからではないでしょうか。というか、私はコレ考えないと書けないわけで、考えないで書いた場合、無意識にキャラ確立してないと後で絶対「別人…!」と悶えることになります。で、このキャラ確立作業ってのが自己分析に非常に似ている。「どんなコドモだったの?」「今とどう違うの?」「どこで(どんなことがあって)そう変わったの?」の3本柱。これをいっつもいっつも考えてるのが私のキャラ固めの方法なわけです。

 さてそれで固めていったキャラの人生を追っかけてゆりかごから墓場までを書いたら「人物」主点で書いた話になりますよね。で、そういうキャラたちがわんさと集まって起きた何か「事件」を書いたら「事件」主点で書いた話になりますよね。キャラひとりひとりに過去があり、それに基づいて行動している(ミステリーは「事件」主点だと思う)。それがかみ合って「ストーリー」主点の物語となると(だいぶ何言ってるやら)。

 キャラ被りというのはつまり、病気に似てるかな、とか。症状は一緒、原因が違う。おなか痛いってのは一緒でも、おなか下してるのか月のものなのかでは原因が違う(なんて例えだ)。キャラ被りとはちょっとずれますが、反応一緒でも何考えたかは違うかもしれないし、何考える、の底にはこれまでの人生と今の状況が絡み合うわけで、揺らぎがある。けどそれでも「そのキャラらしい」感じかもしくは「らしからぬ」行為であったとしても「これこれこうだからこう考えた」って説明できる、揺らがない根幹部分を固めておかないと、「キャラクター」ってのは確立できないんじゃないかと思うんですよ。根幹部分がそっくりでも、考え方の方向性の違いで丸っきり違うひともいるかもしれないし。

 演劇見ててよく思うのは、あるひとりのひとから別のひとりに向けた台詞を同じ空間でまた別のひとも聞いている、という状況で、「台詞を向けられてない別のひとにはこの台詞はどう響いただろう」ということです。そんなことばっかり考えてるから疲れるんだ。何にも響かない場合もありますし、反応する場合もありますし、「あーどっちにも突き刺さったな」と思うこともありますし、それは舞台に限らず日常から様々なジャンルの創作までいくらでも例をあげられることだと思うんですが、演劇の場合は演出に限度があって、客が演出の意図しない別の役者を見てる場合もあるわけで、そういった状況で「この台詞が響いた」演技を見つけたりすると途端にその役者のしている役柄のあれこれが気になったりするわけで。あれ、何言いたかったんだろう。

 それを文章で仕掛けると伏線になったりしますよね。ここか?結論は。あ、ちと違うな。

 キャラクターというのは根幹を固めるのが最も大事だと思ってます。でもその根幹の上にある揺らぎ部分を書いていくのが最も楽しいし、魅力あるキャラクターになる原因だと思います。

 ああそうだ、それで「関係論」を書かなくては、と思っているところに移ります。個人的にキャラ語りは未完成すぎると思うのです。やっぱり根幹部分のイメージみたいなものを語ろうと思っても、「このひとにはこういうひと」みたいな「関係性」の部分を書かなきゃ…という。今まぜこぜですけど(爆)。

 ろめで顕著にそれが分かるのはやっぱりマエズロスですかね。祖父に対しては、父に対しては、叔父に対しては、幼馴染に対しては、弟に対しては、従弟に対しては、……全然違いますあのひと。顕著だというのは一人称二人称言葉遣いマルっと変わるから。フィンゴンに対しては「私/お前」でありトゥアゴンに対しては「私/君」でありフィナルフィンに対しては「僕/君」であり…といった具合。それが変わるにはそれなりの理由がありまして、その理由が出てくる部分が根幹ですよねはいキャラ確立~(ただしまだ終わってない)ということになります。まあ、一人称二人称の変化などで表現できるのは創作ならではの部分だとは思いますが。だって日常で変わるとなると相当意識しないと無理ですよ。あとその場のノリとかありますし。

 ……結論がどこかにいきましたが。創作するひとって、キャラクター、どうやって確立してるんだろう…。ここまで語っておいてなんですが、他の方の考え方を聞いたことはほとんど一度もないと思われます。皆どうしてるんだ!? 降って来るのか!? 揺らがないのか悩まないのかどうなんだ!?

 休み明けたら学校で聞いてみよう…覚えてたらだけど(爆)。

 こんなことを書いたのもフィンゴルフィンが…いやむしろ昨晩のエレンミーレか?昨晩エレンミーレは大会戦で「悔しかったらアマンまでおいでなさいあーっはっはっはっは!」とか口走り始めました正直コワイですっていうか、あんたはどこのポリニャック夫人だ(笑)。
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